昭和44年05月10日 月次祭



 神様は私達に「尽きぬおかげを話にして残しておくのぞ」と教えておられます。「尽きぬおかげを話にして残しておくのぞ」と。ただ話だけを残しておくとも仰ってない。おかげだけを残しておけとも仰っておられない。「尽きぬおかげを話にして残しておくのぞ」と。今朝から頂きます御理解でもそうですね。いわゆる無限大のおかげに繋がっていくと言うこと。限りないおかげにつながっていくと言うこと。
 そういうおかげになる元の大元を、話にして残しておって下さるのでございますから、その話をどうでも本気で頂かしてもらい。そしてその話を本気で行の上に現して参りませんと、尽きぬおかげに繋がりません。お取り次ぎを頂いて不思議なおかげを頂いた。これが成就したと。それは尽きぬじゃないです。その時その時に言うならば切り放されたおかげです。病気をしましたから助けて下さい。こういう問題はどうしたらいいでしょうかと言うておかげを受けてゆくのはね。
 それは尽きぬおかげにつながっていかないのです。ですからどうでも尽きぬおかげを、皆さん頂いて貰わなければなりませんね。それも、尽きぬおかげをあなた方が我流でなさっても、それは尽きぬおかげに繋がらん。金光大神が教えられた事をね、しかもその金光大神が教えられた事を、例えてあのう教典183ヶ条、あれだけですから、あれだけ一片どおり読んだりまたは話を聞いたりしたらあれでお終い。ところが皆さんがこれは実感される事ですね。合楽で実感される事はです。
 教祖の御教えのなんと深い事か、広い事かということでございます。ひとつの御教えひとつの御理解の中から、何遍頂いても何遍頂いても尽きぬお話である。同じお話がない。と言う程にです。教祖の御教えは、尽きぬおかげを話にして残しておくと言う事は、本当は椛目で信心の稽古、合楽で信心の稽古をしておる人でなからなければ、分らんのじゃなかろうかと思うくらいです。ですからそれを疎かになされておるという事じゃないけれども。あの教典に取り組むということが、非常に疎かなんですよね。
 こりゃ私共も長年信心をして参りましたけどやっぱりそうでした。ありゃ一遍通り読んだ、あの通りでしょうが。一遍通り聞いたらあれだけでしょうがね。ですから頭の良い人なんか覚えてしまってある。末永先生のお父さんなんかは、先生方がお説教に見えてから、いちいちあの教典を開いてからお話しされるのを見てから、不思議だと言いなさる。金光様の先生がお取り次ぎをさして頂くものが、あれを暗記してござらんとじゃろうかと、いうてそのう言われる程にです。
 あれを隅から隅まで暗記しておられるというぐらいです。かと言うてその暗記すると思えばあれだけですから出来るんです。ところが暗記でしてからと言うて、尽きぬおかげに繋がるというのじゃないのです。一言の御教えでもそれをいよいよその神縁のところをですね。その広大無辺のところをです。その御教えの中から頂かせてもろうて。いわゆる初めて限りないいわゆる無辺のもの、広大無辺なおかげになってゆくのです。それをですね金光大神は尽きぬおかげを話にして残しておくのだと、おかげを受けたらね。
それを丁寧へ人に伝えてゆくのが神へのお礼じゃと、丁寧にと言う事を言うておられますね。丁寧にと言う事はかんで含めるようにということもございましょうけれども。やはりこれは繰り返し繰り返しという意味もあると思うんです。私のおかげを受けておる事をです。皆さんの一人一人に分かって頂く為にはです、私の頂いておる同んなじお話を、繰り返し繰り返し皆さんが分かられるまで、それを聞いて頂くということが、丁寧に話をしてゆくのであると。今晩私は感じました。
 今日親教会のお月次祭、親先生のお説教を頂いて、豊美と二人で帰って参りましてから、いろいろその事のお話しをさして、今朝からそのお夢を頂いた。そのお夢がもう本当に今日の親先生のお話しを頂きょったら、もうそれがそのままのようなお話し。もう最近親先生はもうへとへとにお疲れになっておられる。もう毎日毎日が御祝詞一本書かれるでも三回にも四回にも分けて書かなければならない程にお忙しい。そのうえにお説教が頼まれればお説教にお出られなければいけない。
 親教会の事をもう本当にもうそれこそ席の暖まる暇がない程にです。若先生が家庭の方受けもっとられますから、そうなさっとられます。そしてご自分でも言っておられます、私は今日月次祭仕えよって眠った。本当に眠っとられました。もたれるようにしてから、眠っとられました。けれどもそのように体は疲れておるとこう言われます。もう本当にこのごろ、もう朝の五時の御祈念にも起きられんごとある。家内から起こされる程に、自分は今疲れておる。けれども神様に御用に使うて頂くという事が有り難い。
 今日先生からあんなお話頂いたんですけれども、問題はやはり私が助からにゃいけん。親先生御自身が助からにゃいけん。そうせにゃ信者は助からんという様な事を、今日は話の中に話しとられますですね。こりゃ私も同感です。同時にです。その御用という事がですもうそれこそ、体がもうくたくたになられる程に、御用にお使い回し頂いておられるから、あぁしておかげを受けておられる訳でございますけれども。そこんところが私とやはり違うところです。
 私は又御用に使うて頂くというても、なら親先生のように有名でもないし、お説教に言われたところで又行きもしませんし。親教会の上やら兼務教会長までなさっておられますから。そりゃ大変に忙しいけれども。私は唯もう御用に使うて、それこそお役に立ちたい立ちたいという一念。しかも一年勝りそれこそ年勝りにこの思いが募ってゆくだけ。七十になったら隠居しよう、八十になったらもう息子に譲ってしまうと言う様な事でなくて、これは私の生が有る限りは。
 ここんところをいよいよ、本当なものにして行かなければならないと言う願いに、私も燃えて。私はそういう願いの元に、御神前奉仕に打ち込まさせて頂く訳。だから先生は様々な形の上の、御用にお立ちになっておられる。私は目にはそれはまぁ見えません。本当に親教会の、いわゆる御用も満足さえ、出来ない位ですございますけれども、私はよりも私としては考えておる事は、大事な事いわゆる。神物。神勤の方を本気で勤めさせてもらうという事。そして御神勤のおかげを頂かして頂くに致しましても。
 私自身が有り難とうなっておらなければ、お役には立たないと言う事をです、私はこう肝に命じてその事を感じておるのでございます。まぁそういう訳でお話しを頂いて、豊美さん今日あんたが今日親先生のお話しの通りのおかげを頂いておる。そりゃもう時々やはり徳になる様なお話である。実を言うと私も今朝はお夢を頂いたけど、私でも分らんなりにそのう今朝からこう言う様なお夢を頂いたと思うただけで、神様それに対するお返事をいつも下さるのですけれども。頂だかん。
 それはちょうど広さは筑後川位大きな川ですけれども。殆ど堤防すれすれにですね、もうそれこそあれが矢を射るような勢いと言うのでしょうか。もうものすごい勢いで流れておるところを。それが暫く致しましたら、丁度真ん中から矢を射るような勢いの、そのお水がですその矢を射るような勢いで、上の方へ水が半分だけが上に上に流れておる訳です。こちらの水がこうこちらの水がこう。それを私が堤防の上から見て、その近所の方達にですね。「これは大丈夫ですか」いにゃそりゃ大丈夫ですと。
 言いなさる様なお夢であった。私は合楽でのおかげと言うのは、本当にそういうお恵みのお水が、川一杯に流れておる様なものであると言う風に感じたんです始めに。こりゃ私が感じたんです。それでその半分が矢を射るように、今度は上に流れておる。上に昇っておると言う様なね、いうなら逆流、逆流しておる、同じ水が逆流しておる訳でじゃないけれども。とにかくあちらにも水上あるであろうか、こちらにも水上があるであろうか。それが一本の川にこう流れておると言う感じ。
 もう矢を射るような勢いで流れておる。はぁ合楽のこりゃ本当にこのおかげの様相であろうと、私はまぁ思わせて頂いた、お恵みの方も矢を射るような勢いをもって下さるなら、又それとは反対の事。いうならお気付けを頂く。おかげを落とすと言った様な事も、又矢を射るような勢いをもっておると言った様な風に私は感じた。その豊美が頂いておる、細々としたそのお夢と何んか関連があって、その事を話したんですけれども。そのとき豊美が言うております事です。
 「私達もお父さんの信心をです、もう一生一代の内には、自分のものにさしてもらわなならん」と言う様な事を言っておる。一生一代の内にいつか機会があったら、チャンスがあったらと言った様な事では間に会わん。私はそれを聞きながら思うた。別に難しい事では無いから本気で信心さして頂いておるのであるから、本気で信心の教えに基づいた生活、さして頂くと言う事以外には無いのだから。その中にならお父さんの信心の、まぁこれがお父さんの信心の、まぁ決め手とでも申しましょうかと言う様なものをです。
 実際自分自身に知っただけではなくて、自分のこの体でですねそれをこなして、自分の心の上に頂いておかなければです、それが喜びにも安心にもならん。さぁと言うて喜びになったり安心になったりするんじゃないのだ。その事私その言いませんけれども思いよりましたら、神様からお知らせを頂きますのに。私がねそう見事でもないけれども、草書でさぁっと普通の者では読みきらんように字を書いておるところを頂いた。それがそれがもう見事なその字である。
 それを又豊美がそれをそれと同じような字に、書体に形だけは書いておるところを頂いた。だからどうもその私は特に豊美なんかの場合はそうですけれども。ほんなこて親先生の言わっしゃるような事をを言う。知ってる。ただ自分の身でこなしたりそれを行じたり、いわゆる行の上に現しきってないだけの事。知ってはおる事だけは、知っておるのですけれども。だからそこまでは私が教えておる訳なんです。ですからねそれではおかげが受けられんから、いわゆる私が行じておる、私が頂いておる信心を。
 やはり繰り返し繰り返しおんなじ事ではあっても、それを見せたり聞かせたりしていかなければ、それが丁寧に教えていく事にはならんのだと、いう事を私は感じたね。例えば私が草書をこう書いておると言う事は、私は言うならば楷書をまず稽古した。そして次に行書を稽古した。そしてこの草書が書けるようになった。だからお父さんのその草書を見てですね。その通りにこう書いておる訳なんですね。だから変体平仮名なら変体平仮名なんかの字を見て、こう習字の稽古をするようなもんです。
 だからそれを楷書で書けと言うても、その楷書がどういう画になって、おるかすらが知らんのです。これではねやはり私はおかげは受けられないと言う事です。そういう意味です。合楽に人達はいわゆるそういうところだけは、私は知っておるように思いますね。言うならばその中身である。その中身と言う事は、ひとつひとつ手を取ってと言うか、又は繰り返し繰り返しと言うか。そこのところを頂かなければ、自分のものにはならないと言う事です。
 先日から松栄会の方達が三日間入殿のおかげを頂きました。連休のあの時分に、全員朝から朝の四時の御祈念を頂いて、一日なんかは一日断食の修行をさしてもろうて、いろいろ教学又は心修、様々なそのういわゆる信心の事、一本かかってその稽古を若い方がなさる訳です。大祓いなんかでももうそれこそここで、火が付くような熱烈な大祓いが午後からあがっております。お参りして来た人達がそれを見ただけで感動してですね。おかげを頂いて帰る程しのその熱烈な信心修行を、三日間に渡ってなさいました。
 その一番最後の日に私を囲んで、座談会をしたいと言うのがあったけれども、なかなかそのタイミングよう頂けんのです。そこでいつも4時の御祈念に私が出て参ります。その4時の御祈念の後に丁度みんな、揃いましたからここの石庭の前で今日ここでひとつ、あなた方の話も聞こう、私の話も聞いて頂こうと言うて、まぁこう一時間でしたけれども、座談会がもたれた訳です。その中で私いろいろ話をさして頂きます。又みんなも様々な体験をお話をしておりました中にです。
 むつやの石井信司郎さんがこういう事を言うのです。ちょうど入殿の朝、御親戚の田代さんの方のお里の方ですね。そこからそこの子供さんが結婚式をなさる。それで向こうのお父さんになる方から、「信司さんその日はひとつ自動車をもって手伝いに来てくれんの」とこう言うちゃった。ところが「それが出来まっせんばい」とその気が弱いもんですから言えなかったんです。それどもやはりそのまま入殿した。そう言う様な事を朝入殿した、すぐ御祈念が済んだ後に私にお届けをされます。
 実は今日こうこうこうでございますが、どうさして頂きましょうか。そりゃあんたひとり欠けても構わんからね、それが例えば言うなら義理ある親戚であるからね、あんたの自動車を当てにしておられようだから、それは一日の事であるから、明日からまたおかげを頂いて一日はそちらの方へ行って、御用さしてもらったらどうだろうかと、言うて私申しましたら、信司さんがじっとそのここで御祈念をしながらそれを頂いてです。「親先生私この事は今幸い佐恵子が来ております。
 田代の一番妹のが来とりますから、佐恵子にどうせあちらに参りますから、この事をはっきり言わせて頂こうと思います。今日こげな風で入殿で3日間、とにかく店の用事すらが出来ない状態にあるから、本当に相すまんけれども自動車だけは、どうぞお使い下さい。けれども私はこんな訳でいけませんから」と言う様にです。ことづてをしたいと言うのである。あんたがその腹なら実を言うたら私もそうなんだと。10何人もの者が入殿と言うて、例えば都合があるから家に帰る。
 行ったり来たりふうなこつで入殿の値打はなか。あんたがその気ならそのようにお取り次ぎをさして頂こうと言う事であった。そこで座談会の時その事を3日間一生懸命、御祈念をしながらです神様は、いつもあちらも立ちゃこちらも立つ自分も立つ。これがお道の信心のおかげの本当の姿だと言う風に教えられます。そこでです。神様が私が神様の御用一心にこうなっておればです、あちらの方は神様が顔を立てて下さる程し、ようなおかげが頂きたいと思うて、その事を願いつづけて参りましたが。
 今日最後の日になりましてから思うのでございますけれども、明日がだから楽しみでございますとこう言われるね。今度その田代家の方とお会いするのが楽しみである。信司さんあんた来てくれなかったばってん、こげな風で都合ようおかげを頂いたと言う風に言われるかね、その事が機嫌が悪うてやはり顔色が変わるようにあるか。私は神様の方へ打ち込ませて頂いておるけれどもですね。そこの事は神様にお任せしてです、お願いをさして頂きいておるのであるからね、そういう私の顔も立てばあちらの顔も立つ。
 両方がいわばそれで困ったと言った様な、そのために言わば溝が出来ると言った事のない、おかげを願っておるとこう言うから私が申しました。それは信司さんあんまり甘いぞこれだけの修行をさしてもろうたから、もう自分の顔を立ってて下さる。成程そういう神様なんだ。けれどもね例えばその為に、ならそことなら溝が出来る様になっておってもね、ここんところが信心だ。これが修行だ。今日皆さんに分かって頂きたいのは、そこんところなんです。
 そこんところですもっと内容を、もっともっとそこんところを深めて行ってです。今朝から頂きますように、これはまだ信心が足りぬからだと言うところをもっと深めていって、同んなじような事柄を繰り返し繰り返しさして頂いて、成程神様一途になっておれば、このようなおかげが受けられるんだと言うです、確信を持たして頂ける信心を頂くと言うのですから、やはり容易な事じゃない事が分りますでしょうね。そりゃもう神様の神の用を足しゃ氏子の用は神が足してやるからと言うて。
 もうさっさと神様が氏子の用を足してやらっしゃる、と言った様な事はあってもです。なかってもですいうならば。あってもなかってもそこんところを繰り返し繰り返し、稽古をさして頂くという事が信心だと言う事。私共そこんところをいやと言う程、繰り返し繰り返し稽古さして頂いて、本当に神様の方へ向かってさえおけば、間違いのないという確信を持てるところまでいっておるのです。だから一番始めんところにきんのところだけですね、覚えておるから内容がない。
 だからやっぱり神様ちゃ顔を立てて下さると、あっちも立ちゃこっちも立つ程のおかげを下さるんだと、そういう神の働きというものを頂く事によってです。もうそれで自分は親先生の信心を会得したかのように思うておる。そして次に今度はそのために溝が出来たり、その為に損をしたり、人に迷惑をかけたりするような事になって来るとです。もう言わば親先生の信心をそれから自分の勝手な信心にしていこうとする。私はね馬鹿と阿呆で道を開けと言う事は、対人間だけの場合じゃない。
 対神様の場合も同しなんだ。神様が嘘から嘘を言い続けてござってもです。もう神様が、お前には嘘は言うわんぞと仰る様なところまでです、頂かせてもらってから確実なもの、本当なものということ、私は今日初めてですね、はぁ馬鹿と阿呆になると言う事はね、対人間だけの場合じゃないと、いうことを神様の前にもやはり馬鹿と阿呆で、道を開いていかなければならないと言う事なんです。信心辛抱と言うてもです。そういうところをです。辛抱し抜いていかなければいけん。
 右と願えば左左と願うても右。それでもです。それでもだから理屈を聞くとですね、今こそ神の願いが成就しておるときだと、言う風に簡単に言われる。まぁ言われてみればそうかいなとこう思う。けれどもそこんところを自分が身をもって、そう言う場合に直面した時にです。本当に神の願いがそう言う時に成就しておる時であると言う様な、その思い込みが出来るところまでの、信心が修行が必要であるとするところにですね。一遍な親先生の様な信心を体得しとるです。
 お話しどんさするならば親先生と同じ事を、私の豊美達なんかは母親にでも、家内にでも言うんです。覚えてるんですね。いうなら草書だけなら書けるんです。私がっと同じもんのごと書くですけれども。肝心要の楷書がでけてない。なんと言う字かすらも知らない。行書はこう書かんならん。草書はこう書かんならんと言う様な事を、その段階を踏んだ内容のない修行のない、自分の身から生み出されて来たところの、体験というものをもってないというところにです。
 いよいよの時にはひとつも役に立たんという、いよいよこれでお徳を受けなならんと言う時にですね。もう殆どの人が失敗するんですよ。合楽では。そこんところをですね、私は本当に受けていけれる信心。そういうところをです私今晩私が皆さんにお話しをしたことをです。なら私が尽きぬおかげを、私が事実頂いておるのです。金光大神は尽きぬ話を尽きぬおかげを話にして残しておくのぞ。
 毎朝晩の朝の御理解などを頂いておりますとです。ひとつの御教えからどれだけの、言わば広大無辺なお話しに、なって来るか分らない程の様なものを、例えば今朝当りの御理解を頂いて御覧なさい。信心が足らんからこれからの信心ということを、どの位頂いたか分らんけれどもです。今朝あたりの御理解を頂いておりますと、又新たな意味合いににおいての、これからの信心ということが解かれてあります。
 もう驚くばかり成程金光大神は尽きぬ話を、尽きぬおかげを話にして残しておって下さるなぁと、いう事を実感せずにはおれない。だから私自身がおかげを頂いて、それをなら皆さんに丁寧に話てゆくのがとこう仰るのですから、私はここんところを丁寧に分らんならば、繰り返し繰り返し皆さんに聞いて貰わなければならんですけれど、皆さんがそげな分ろうという気になりゃです、楷書からやり直そうと言う気になればです。
 信司君に私がお取り次ぎさして頂いたようなところを、何回も何回も繰り返しとおらして頂く時にです。初めてははぁ馬鹿と阿呆とは、こう言う時に馬鹿と阿呆にならんならんばいねと。こういう時が信心辛抱ばいなと言うものをです頂いて、始めの間はその先生の言われる通りにしておったら、入殿のおかげを頂いておったのに、三日間もあれだけ打ち込んだのに、親戚の方とはそういう事の為に溝が出来るような事になってから、これは先生の言われる通りばっかりいかんばいと、言う様な事にならずにね。
 そういう事が何回例えば繰り返してもです、それが1分づつでも神様のおかげを実感さしてもらえる様な、おかげに変化して来るおかげの方が。そこんところのおかげをです楽しみにお互い、信心さして貰わなければいけないとね。「尽きぬおかげを話にして残しておくのぞ」と、先ずその尽きぬおかげを話にして残しておくと言う事を、私はよそは知らんけれども合楽では、そこんところを尽きぬおかげとして、皆さんに聞いて頂いておると私は思うです。
 ですからそれを皆さんがです、皆さんの私は信心によってそれを消化してね、血肉にしていってです。皆さんがいよいよ無限大のおかげに、繋がらして頂ける程しの、おかげを受けた時に、初めて楷書が書けえた草書が書けえた、楷書で教えられる行書でも教えられる。同時に間に合わん時には、自分の草書でさらさらと書いてもいいようなです。おかげの世界と言うものをひとつ目当てに、皆さん信心をなさらなければ、いけないと言う事でございますね。
 馬鹿と阿呆になると言うてもね、今日の場合は対人間の場合ではなくて、神様の前にでも、それを私は馬鹿と阿呆になっていけれるね。教祖の神様に神様が何回も何回も嘘を言うておれる、その嘘を言われた時に、はぁ神様貴方ばかりは私に嘘を言いなさってからと仰ってない。その嘘をもう真に素晴らしゅう受け止めて、それをおかげに頂いておられる。「もう金光大神、お前ばかりは試しようがない」とさえ仰った。「もうこれからは嘘は言わんぞ」と仰ってから、また嘘を仰っておられる。
 だから言うならば大嘘つきの感じですよね、神様は。いつか秋永先生が私に申しました。「もうあぁなたは古狸とおんなしこっじゃ」と私に言うた。「あんたが子狸たい」と私は言う様に、私もいよいよ古狸のその性根をですね、頂いていってそしてもう言うならばもう本当に騙さんぞと、言われるところまで行った時に、私と皆さんとの本当の交流はそこからじゃなかろうかと。神様と本当の無限大のおかげに繋がってゆく交流と言うのは、そこからだと私は思うのです。だからこそ信心の稽古と言うですかね。
 そこんところをひとつ、今日はひとつよう分かって、又今日の御理解を頂きますとですね。丁寧に伝えていけと仰るのですから、この事は又丁寧にですね。繰り返し繰り返し皆さんに又聞いて頂きます。ですから皆さんも本当に分かって頂かなん。それが私がおかげを受けていく事でもありゃ、皆さんもおかげを受けてゆく事になって来るのですからね。皆さんが楽しみにしておられる、福岡秋永先生のところの御大祭が、いつも12日に奉仕されました。
 けれどもどうでもここが変わりましたから、久留米でも福岡でも一遍変わるのが、本当じゃろうと。同時福岡の場合は、北野の教会と同じ日になるんです。それがあちら21日が月次祭ですから、21日の月次祭にと言う事を改めて、北野の先生がお取次ぎに頂かれましたから、お願いさして頂いとりましたらあのう21日の事を頂きますから、どうぞ21日になりましたから、そのお積りでどうぞ。12日ではございません。明日は高山さんのところの宅祭り。
   どうぞよろしく。